やっぱり自分の中にも、目の前の人の上に立ちたいという気持ちがあるんだなあと、さみしい気持ちになることがあります。違う言い方をすると、認めさせたい、コントロールしたい、従わせたい…書いていると、ため息が出てしまいます(根のクラさが出ている)。
いつも意識できることではないのだけれど、その気持ちよさで自覚されるのです。
わかりやすく、強い口調を使ったり、ことさらに相手の非をついたりすることはないのですが、わかりにくい形で権威を利用していることがあるのだと思います。
非対称な関係の中では特に自覚的でないといけないなあと考えています。
子どもたちとの関係では、控えめに言っても、非対称な関係が生まれやすいものです。やろうと思えば相手のことをコントロールしたり、思う通りに動かしたりできる関係って、普段の人間関係の中ではありえないものですよね(そうとも言えないのかな。。)。
でも、それができてしまう。正しさめいたものでラッピングして。
そんなふうに権威を使うことから離れられないのは、権威的であることで得ているものと、対称な関係でいることで失っているものがある(と思い込んでいる)からなのではないかと想像してみます。
そう考えると、いばっていることのラッキーな副作用、「権威のたなぼた」ってあるなあと思います。
例えば、激しく怒ったり手を出したりする先生の中で、「子どもおもいの先生」と言われる人が少なからずいます。その先生がやさしくないとは言わないけれど、「あの先生、“本当は”やさしいんだよ」と言われてしまう。その権威が引力になってしまう。
もう一つの例は、おもしろさです。おもしろいこと(おもしろがること)って大事にしているから、「権威のたなぼた」でおもしろいと言われる人に、すごくいらっとする自分がいます。それをユーモアだと勘違いしていることに、腹が立ちます(落ち着いて)。
反面、そんなふうにひっかかる自分のことを考えると、始めに書いた通り、やっぱり自分の中にも、権威に浸りたい自分がいるんです。あーこわ。
とにかく。
意識的でいたいなあと思います。
いつも意識できることではないのだけれど、その気持ちよさで自覚されるのです。
わかりやすく、強い口調を使ったり、ことさらに相手の非をついたりすることはないのですが、わかりにくい形で権威を利用していることがあるのだと思います。
非対称な関係の中では特に自覚的でないといけないなあと考えています。
子どもたちとの関係では、控えめに言っても、非対称な関係が生まれやすいものです。やろうと思えば相手のことをコントロールしたり、思う通りに動かしたりできる関係って、普段の人間関係の中ではありえないものですよね(そうとも言えないのかな。。)。
でも、それができてしまう。正しさめいたものでラッピングして。
そんなふうに権威を使うことから離れられないのは、権威的であることで得ているものと、対称な関係でいることで失っているものがある(と思い込んでいる)からなのではないかと想像してみます。
そう考えると、いばっていることのラッキーな副作用、「権威のたなぼた」ってあるなあと思います。
例えば、激しく怒ったり手を出したりする先生の中で、「子どもおもいの先生」と言われる人が少なからずいます。その先生がやさしくないとは言わないけれど、「あの先生、“本当は”やさしいんだよ」と言われてしまう。その権威が引力になってしまう。
もう一つの例は、おもしろさです。おもしろいこと(おもしろがること)って大事にしているから、「権威のたなぼた」でおもしろいと言われる人に、すごくいらっとする自分がいます。それをユーモアだと勘違いしていることに、腹が立ちます(落ち着いて)。
反面、そんなふうにひっかかる自分のことを考えると、始めに書いた通り、やっぱり自分の中にも、権威に浸りたい自分がいるんです。あーこわ。
とにかく。
意識的でいたいなあと思います。
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